生まれ故郷です 長崎県の崎戸島 S30年ころ
( 注 : 私が生まれるのはこの写真のもう少しあと ! )
私が juju です
人はだれでも生れてくる時期や場所、
そして親を指定することはできません。
決してお金持ちの家ではありませんでしたが、世界の中では最も安全と言われる日本に、戦争のない時期に生れることができたことは、世界の何十億の人々からは羨ましがられるものと思います。
ですので、まずは感謝です。
その島は小さく、夏の遊び場は海水浴場だけでした。
道端には普通にカニが歩き、
家の畳の上には10cmは超える長さのムカデが這っていたんです。
最先端の乗り物はバスで、私も運転手になりたいと憧れました。
一番の高台に小学校があり、幼稚園児だった私は母に手を引かれ、兄の参観日に学校までの坂道を登った記憶があります。
佐世保まで船で1時間。
ものすごく揺れ、船酔いは最後まで克服できませんでしたね。
昔のバスは、こんな形でした
兄の通っていた憧れの小学校には上がれず、親の都合で尼崎に引っ越すことになりました。
上がったと思ったらすぐに転校、また転校。
でも家族は仲良しで、父も母も日本一だと本気で思っていました。
最高の家族じゃなかったの?
それは中学二年の夏のことでした。
夏休みなので外に遊びに行って帰って来たら、
その日はいつも居るはずの母がいなかったんです。
夕方になっても暗くなっても帰ってきません。
私はふと、自分の机の引き出しを開けてみました。
そこには見慣れない、4つに折られた紙が入っていて、
中には
「お母さんは出て行きます、 もう帰らないからね。」
世界一の家族と思っていたのは、私一人だけだったのか?
その日から、
行ってらっしゃいも、
気を付けてねも、
おかえりなさいも、
帰って来てから話を聞いてくれる人も、
ご飯を作る人も、
洗濯をする人も、
掃除をする人も、
いなくなってしまった。
部活で早く家を出る兄を見送って、仕事に行く父親を見送ったら
たった一人で玄関を閉めて、学校へ行く生活。
寂しかったなぁ。
毎日がイヤでしょうがなかった
すごく嫌で情けなくって悔しかったんですが、事実だからしょうがない。
(夜逃げではなかったが)
私は今でもその中学と担任だった先生が大嫌いです。
学校へは行きたくない気持ちで一杯でしたが、
今と違い 学校を休む という発想は初めからなかったです。
学校とは、とにかく行くのが当たり前の時代でしたからね。
横浜の中学は、給食がなく 弁当でした。
毎日、父が会社に行く前に弁当を作ってくれたんです。
思い出すと、今でも涙が出ます。
一人の環境で学んだこと
私が高校入試の頃には、
父は身体を壊し 入院していたので、高校は私一人で決めました。
高校に合格した私は嬉しくてしょうがなかったです。
理由は
私の生い立ちや家庭環境を知らない人ばかりだからです。
それだけで新鮮で希望でした。
やがて元気になった父は、今度は長期の出張が当たり前になりました。
兄は、楽器の練習のために自衛隊の音楽隊に入隊しました。
つまり、3DKに一人暮らしの高校生活となったわけです。
父は、毎月のお小遣いの他に、生活費として数万円を置いて行きました。
自由に使えるお金と一人暮らし というのがかえって無駄遣いを抑えたと思います。
『信頼されてるからこそ置いて行ったお金』
この信頼は、私への父からの無言のルールでした。
『自由とは責任を伴う』
その時に大事なことを学んだような気がします。
楽しい、あっという間の3年間は過ぎ、大学生活が始まりました。
父親のおかげとしか言いようがないですね。
だって私立大学の工学部でしたから。
父の苦労は如何ばかりだったろうか。
離婚しても寂しい顔も出来ず、辛かったと思います。
必死だったことでしょう。
いま、自分が親になって、
女房がいなくなったとして
感情に浸る時間もないまま、
子供のために動き続ける事が、果たして出来るか?
それを続けられるか?
全く、自信はありません。
学生から残業地獄へ
大学は、電気や通信が好きだったせいで、
通信工学を専攻し順風満帆な人生になるかと思いきや、
学生時代のバイトが縁で、就職はレストラン。
父親は驚きました。
自分も驚きました。
なんせ気が付いたらフライパンを振ってましたから。
( イメージ )
厨房の中は、冬でも40度以上。
一年中汗まみれ。
包丁で指は切れるわ 毎日火傷はするわ
昼時と夜の大混雑以外の時間は決して休み時間ではなく、
ソースやハンバーグなどの仕込みの時間。
やっとそんな中で時間を作ってお昼ごはんを食べようとしたそんな時、
お客さんが入ってきたら、もうご飯は食べられないという 落ち着けない毎日。
毎日そんなことの繰り返しでしたが、
それでも最初の5年間くらいは必死だったし楽しかったですよ。
12時間以上の仕事が当たり前の世界で10年余りが経ち、
自分にサービス精神はそれほどなかったことに気が付いて、
( 気付くの 遅い )
普通のサラリーマンをやってみたいという、ぜいたくな思いが頭の中を支配するようになってきました。
せっかく料理の世界にいたのだから、
店を出す という選択肢もあったのですが、
自分だって腹が減ってご飯を食べたいときに
人のご飯ばかりを作るという毎日が嫌になっており、
調理師の資格を取って自分の人生の証を作ってから転職することにしたんです。
ちょうど阪神淡路大地震やオーム真理教のサリン事件があった時期で、世の中は、大不況に転落していく時。
通販会社で一からやり直すこととなったものの、会社は倒産。
いくつもそんな転職があって、気が付けば定年まであと何年かを残すのみ。
焦りましたね。
会社のためにも一所懸命頑張ったのですが・・・。
そんな状況の繰り返しで貯蓄などあるはずもなく、
年金には期待できず、
奥さんと子供二人を抱えて 「さぁ、どうしたものか」
この歳で転職は、ほぼ無理。
出来たとしても、給料の UPは期待できない。
まだまだ不況と言われている中で会社を立ち上げるリスクはあまりにも高い。
定年後に嘱託で会社に残れたとしても大幅な減給は目に見えてましたから。
今まで自分の時間を仕事や会社に費やしてきた結果がこれなのか?
大切な時間を奪われ、
住む場所を制限され、
気に入らない人とでも話を合わせ、
欲しい物も我慢して節約した
その結果がこんな不安な毎日なのか?
そんなはずはないと思いました。
こんな人生で終わりたくないと思いました。
定年まじかの不安をアフィリエイトに賭ける
私が最初に始めたのは、
ブログとメルマガによるアフィリエイトビジネスでした。